承認欲求
旨く付き合ったほうがよい。
判断
人生とは判断の連続だとおもう。
細かいものから、大きなものまで、たくさん判断するでしょう。
判断するときにいろいろなものさしでその判断対象をみるでしょう。
だれそれがこういっている。 あの本にはこうかいてある。
ただし決めるのは自分である。
これを覚えておいたほうがよい。
決めるのは自分である。
つまり、決めたことに対して責任が付きまとう。他人のせいにはできない。
今日、とうちゃんは、会社で仕事をしている。
この会社で今の仕事をしているのは、だれでもない俺の判断の連続がもたらしたものである。その今を愚痴ったり失望しても、それを選んできたのは俺である。
ちなみに、俺は自分でかなりいけてる判断してきたとおもってる。 今も幸せだし
今後もより楽しく生きるためのプランが多々ある。
判断力をつけるというのはかなり難しいけど、それは自分で決めるということを決めることから始まる。
自分の人生は自分でハンドルを握っているということを自覚することである。
親であるおれは子供達がどっちにいきたいか、聞いて支援できることは何でもしてあげたい。しかし、変わりに決めることはできない。
判断とは常に自分で決めるのである。
判断の質を上げる
これも重要である。
決めることはできてもそれが本当によいかどうか、その質を上げることは重要。
判断の質を上げるために、いろいろな経験をし、人と話違う価値観に触れ自分を確立
していってほしい。自分が何になりたいか、どういきたいか、自分のビジョンを確立してほしい。
誰が言い出したかわからないような、世間の常識を軸に判断するようなことはしないでほしい。
自分はどうあるべきか。どうしたいか。それには何が優先されるのか。
そういったことを多面的に考えてリスクがあるのも承知で判断できてこそ、本当の判断だと思う。
それは決断といってもよいかな。
決断できる奴がよいな。なんとなく、世間の常識、親の期待にながされて生きるのでなく、
俺はこうなりたい、こういう風な人生を送りたい!という自分のビジョンのもと今を決断していくような人になってほしい。
そういうやつって、すげー強いし、なんせ活き活きと楽しそうな奴らが多いから。
勉強
仕事
何でもよい。人の為になっているのであれば。そもそも、誰かの為にならないものは、世の中的に価値を生んでいないので、仕事としては成立しない。
もし、ためになってなく、金が稼げることがあればそれは、詐欺行為でしかない。
なので、自分がやることが誰の何の為になっているか。これを常に感じていなければ
仕事の情熱などたかがしれている。
かつ、男の子であれば、半世紀は働く。
人生のなかでもかなりの時間を費やす仕事を、情熱的にできないなんて、こんな不幸はないと思う。
遊ぶように仕事し、仕事するように遊ぶ ってくらいがちょうど良いと思う。
何でもいいんだ、情熱的にチャレンジできてれば。キャリアとか、給料とか、そんなもんは突き抜ければあとから付いてくるから。
夢とか目標
持っていたほうがよいが、無理やり持つものではない。
ましてや、他人に評価されるための作られたもの(むりやり用意したもの)などはもってのほかだ。
自分がどうすごしたいか。それを追求することが良いと思う。
就職活動中の若手の面接を受ける機会があるのだけど、この夢、目標がきれーすぎる感じがするのよね。
社会貢献が夢です!
であれば、就職ではなくNPOに言ったほうがよいと思ってしまう。
いいたいことは社会貢献を夢にすることはNGではなく、本当にやりたいこと、手に入れたいことに向き合ってほしいということ。
そうでなければ、ここぞというときに自分を奮い立たせることはできない。
なんとなくほしいものをなんとなく努力して、なんとなく手に入れるのって
満足感もなんとなく何だと思う。
だから、本当にやりたいこと、好きなことを見つけてほしいんだよね。
そこに理由はいらない。後付でもなんでも良い。 なりたいという思いが本物ならなんだっていいんだよ。
立場をつかいコミュニケーションをとるやつ
これは本当にたちが悪いから無視して良いと思う。
俺は営業職だから、顧客、営業の立場上、ある程度はあるし、それは飲み込むけどたまに、自分が神にでもなったような奴がいるけど、そういう奴とは徹底的にたたかうね。
結果、取引がなくなったとしても別で補填すればよいやくらいの気概。
飲食店などで、店員に横柄な態度をとるやつとか、これもだめね。
覚えておいたほうがよい。金を払う方がえらいということはまずない。
人は平等であり、金を払う人、金を受け取りその分の対価(価値)を提供する人。これも当然平等である。
サービスに対し納得がいかなければそれに対する指摘は別に良い。
その指摘が人格などに踏み込むことは基本ありえない。
ありえる場合は、その指摘を受けた人が本当にだめな人格で人をだまそうとかした場合くらい。
金とか地位とか、そういうフィルターでものを見て判断すると本質をずらす。
これは、人との付き合い、仕事選び、いろいろなことに通ずると思う。
これは結構だいじだぜ。
人と比べるということは意味があまりない
子供達3人にどうやって生きてもらいたいかと問われたらかなり上位にくること。
「人と自分を比べない」
スポーツもビジネスも基本は競争の原則はあるので、これはなかなか難しいのだけれども人と自分を比べた時には自分の経験則上、しょうもない感情がわいてくるケースがおおいよ。
●すごい人と比べた場合
自分がとてつもなく小さく、しょうもない人物に思える。客観的に人のよいところから学ぶことは重要だけど、必要以上に自分を過小評価し、自信がなくなってくるからやめたほうがよい。
自信がない自分は他人の反応をみて行動することを覚え、本当の自分の感情に素直に行動できなくなるという負の連鎖を生み出す。
●人を自分より下だと思うこと
自分のほうができていると思っている人と自分を比べた場合、優越感を覚える。
これは自分の価値観のなかでの序列であり、かなり偏見的なものの見方の場合が多い。
原理原則として人は平等であると思う。
というか、人の価値観について優劣はつけがたいと思う。正義対正義の構図になる宗教戦争みたいなもんで、どちらも双方の価値観から見ると正義なのである。
世の中はいろいろな人によって成り立っており、それぞれの正義、価値観がある。
自分の価値観で人の優劣を決めることは自分の価値観の中での話しなので何の意味がない。
●比べるのはあくまで自分の理想の自分像と今の自分でしかない。
自分をより好きになるため、理想の自分に対し努力することこそ健全で幸福な人生だと思う。
わき目も振らずそれを追い続けることができたら、すばらしい。
それがどんな自分像に向かってるかは、他人の意見などどうでもよくて、自分がなりたければよいと思うよ。
なぜそれを目指しているの?と問われて、人に旨く説明できなくても、好きなものは好きだし、自分がそうなりたいと思ったら思いっきりやったほうがよいよ。
一番強い奴って結局そういうやつ。他人にどういわれようが、自分のやりたいことに徹するやつ。それは別に楽をするほうを選べってわけじゃないんだけど、使命感みたいな感じで何かに対して集中してる人は強いよ。
登山家とか。 ただ上りたい、以上、見たいな人とかすごいなーって思うよ。
そういうのが見つかるといいよな!