血を信じる

他人からみるとかなりアホな話なんだけど、俺は加藤家の血を信じている。

 

それは何かっていうと、最後絶対にポジティブにチャレンジするってところ。

 

過去いろいろ失敗したり、自分を責めたりとかもあったけど、最後その事象に対し

ポジティブに且つファイティングポーズをとってチャレンジするモードになる。

 

なぜそうなるのか?って考えたんだけど答えが見つからん。 これはもはや、加藤の血なのではないか?と考えた次第です。

 

兄弟を見ると、みなそうなのよ。 じゅんちゃんもいくみちゃんも。

だからすんごく不安なことや、打ちのめされたことがあっても、こころのどこかで、「俺は今は落ち込んでるけど、またどっかで復活するんだろうな」って思ってる。

 

っで、結局百発百中でそうなってる。

俺のとうちゃんは、プライド高いいなかもんで、友達つくるのってあまり旨くなかった感じがするけど、最高に俺は好きでさ、明るくって男らしくって、不器用な人だった。 

くよくよ、めそめそしてるところは見たことない人で、金の件とかで辛い時期もあったと思うんだがいつも強い感じだったよ。

 

俺もそうそうないけど、落ち込んだりしたとき、あー親父だったら奮起すんだろうなーって思ってていつの間にか、血みたいなものに確信をもつようになった。

一度じゅんちゃんといくみちゃんと酒飲んだときにその話したら、3人みんなおんなじだったんだ!! 

みんな血を信じてたのよ。うけるよね。 加藤家は必ずポジティブに立ち上がるんだ!って。超笑ったよ。

 

だから、人生で悩むことあったり自分に自信がなくなったり落ち込んだりってあると思うけど、俺の血を引き継いでるのでお前ら絶対に大丈夫だぜ。

 

承認欲求


旨く付き合ったほうがよい。
承認欲求は誰もがもつ。 これが強すぎたり旨く自分の承認欲求をコントロール
できない人は、いたずらに周りの評価をほしがる。
 
本心ではいやなことも、飲み込んでいく。人に合わせ、他人の評価に支配され
いきていくことになる。これはつらいぞー。
 
それが悪いとはいわない。けど、俺がみたその手の人は、周りとの関係性で
悩みくるしんでいる人が多い。人は嫌われたくないんだよね。嫌われるのは俺も別に好きじゃないけど、俺のあるがままを受け入れてもらえなかったらそりゃそれでしょうがない。かといって別にそいつを嫌いになるとかもない。
 
俺のお勧めは承認欲求は職場で求めないこと。
職場で持つと、是々非々の判断ができなくなる。評価、見られ方を気にして
自分のやるべきこと、するべき判断を曇らせる。
これはなかなか難しいし、ゼロにせよってそれは無理な話なんだ。あくまで
バランスだと思うけど、職場では承認欲求を半歩引いて見る。承認、評価してくれて
ラッキーくらいがちょうどよい。
 
承認欲求はもっと、自分の人生にとって長年付き添うであろう人に対して
向けることがよいと思う。
 
俺であれば、家族、友人 がそう。
 
彼女でもいいけどね。俺ともちゃんと付き合ってるときから、そうだったし。
彼女に認められるというか、「いい男だ!」といわれることが喜びなので
一生懸命やったんだと思う。
 
俺の場合、嫁への承認欲求が自分の人生を豊かにしてきたし、職場のステージもあげていった。
 
あと、基本的に俺は愛されてきたという自信がある。
これは、両親に感謝なんだけど、子供達にもその自信をあたえたいとすごく思うよ。
 
自己肯定感というか、自分が自分で俺はいけている!と思っていきてきたんだけど
これは案外幸せなことだと大人になって気付いた。 
 
超絶勘違い男の部分もあるけど、承認欲求が子供のときみたされてきたから
こうなったのかなと思う。
 
って、最近の職場の若者の悩みをきいていたら書きたくなったよ。
 
こいつには認められたい!!って人がでてくるって幸せなことだよな。
一生かけて認めさせよう!認めてもらいたい!ってそんな存在がいるだけでがんばっちゃう理由になるからね。
 
俺は子供とか嫁ってのはそういう存在だな。友達はそりゃ認めてもらったりほめてもらうのはうれしいけど、ただただ楽しい気の合う仲間ってかんじかな。

 

判断

人生とは判断の連続だとおもう。

細かいものから、大きなものまで、たくさん判断するでしょう。

 

判断するときにいろいろなものさしでその判断対象をみるでしょう。

だれそれがこういっている。 あの本にはこうかいてある。

 

ただし決めるのは自分である。

 

これを覚えておいたほうがよい。

 

決めるのは自分である

 

つまり、決めたことに対して責任が付きまとう。他人のせいにはできない。

 

今日、とうちゃんは、会社で仕事をしている。

この会社で今の仕事をしているのは、だれでもない俺の判断の連続がもたらしたものである。その今を愚痴ったり失望しても、それを選んできたのは俺である。

 

ちなみに、俺は自分でかなりいけてる判断してきたとおもってる。 今も幸せだし

今後もより楽しく生きるためのプランが多々ある。

 

判断力をつけるというのはかなり難しいけど、それは自分で決めるということを決めることから始まる。

自分の人生は自分でハンドルを握っているということを自覚することである。

 

親であるおれは子供達がどっちにいきたいか、聞いて支援できることは何でもしてあげたい。しかし、変わりに決めることはできない。

 

判断とは常に自分で決めるのである。

 

 

判断の質を上げる

 

これも重要である。

決めることはできてもそれが本当によいかどうか、その質を上げることは重要。

 

 

判断の質を上げるために、いろいろな経験をし、人と話違う価値観に触れ自分を確立

していってほしい。自分が何になりたいか、どういきたいか、自分のビジョンを確立してほしい。

 

誰が言い出したかわからないような、世間の常識を軸に判断するようなことはしないでほしい。

自分はどうあるべきか。どうしたいか。それには何が優先されるのか。

そういったことを多面的に考えてリスクがあるのも承知で判断できてこそ、本当の判断だと思う。

それは決断といってもよいかな。

 

決断できる奴がよいな。なんとなく、世間の常識、親の期待にながされて生きるのでなく、

俺はこうなりたい、こういう風な人生を送りたい!という自分のビジョンのもと今を決断していくような人になってほしい。

 

そういうやつって、すげー強いし、なんせ活き活きと楽しそうな奴らが多いから。

 

 

 

勉強

 

何のために勉強するのか。学校にいったら確実にこの問いにであう。
学校で学ぶ、国語が、数学が社会に出るために役に立つのか。
漢字などこれだけPCが普及している中で本当に必要なのか。
 
結論、上記が社会にでて役立つことはあまりない。これは俺の実感値だけども。
 
では勉強は意味がないか?
 
これは大いに意味があると俺は思う。
 
勉強で獲る知識ではなく「学ぶ」という行為に価値がある。
社会に出ても学び続ける。それは昨日の自分より今日の自分が少しでも成長するためだし
その成長はなぜ必要かといえば、自己実現だと思う。
 
 
成長を遂げると、自分の影響の輪(意思と意図が効く範囲)が大きくなる。そうすると自分のやりたいことが実現できるようになる。
人は学び続けることで、自己実現を果たす。
 
わからないことがわかるようになるということ。これを一番感じてほしい。
受験や試験の為の勉強はまあ、かあちゃんはそうはいわないかも知れないけど
俺はあんまりいみないと思っちゃう。本質的にはね。覚えるだけとか、んなもん気合だけだしそういうの頭いいっていわないから。
 
だけども、イケてる学校にはいけてる奴が集まるのもまた事実。
ここでいうイケてるやつというのは、お勉強ができるやつではない。
 
自分の将来を自分で考え可能性を切り開いていくことのできる奴。自立した奴。
本当にやりたいことを見つけ出しそれに対しチャレンジし続けるやつ。
 
こういった奴のこと。 
 
俺はよい学校に入り、ぴかぴかの学歴をもって、大企業に就職することが幸せだとは
まったく考えていない。が、人によってはそれが幸せに感じる人もいるわけでその価値観は否定しない。
 
 
大学いって、大企業にいってってのはプロセスの側からしか見てない話で
そいつが、何をしたいんだ、ってのが重要。そいつが一生かけてやりたいことが、大学はいって大企業でしかやれないことなら全然OKなんだけど、大半のやつらはそうではない。
○○大学にいけば漠然と将来をやくそくされてるとか、○○会社行けば成功がやくそくされてるとか。これ違う。
 
結局社会にでても、俺が見た活き活きと活躍してるやつって、常に学んで進化してるやつだから。
 
できないことをできるようになる訓練なんだよ学校の勉強ってのは。
 
学校の勉強が嫌いな奴でもすげー人はたくさんいて、それは、たまたま学校の勉強がきらいというか興味がないけど別の分野において勉強している。つまり学ぶってことをやってるわけだ。 学校つまんなかったらそれはそれでもいいけどね。それ以上にやりたくて学びたいことがあるなら、全然OKだよ。

 

仕事

何でもよい。人の為になっているのであれば。そもそも、誰かの為にならないものは、世の中的に価値を生んでいないので、仕事としては成立しない。

もし、ためになってなく、金が稼げることがあればそれは、詐欺行為でしかない。

 

なので、自分がやることが誰の何の為になっているか。これを常に感じていなければ

仕事の情熱などたかがしれている。

 

かつ、男の子であれば、半世紀は働く。

人生のなかでもかなりの時間を費やす仕事を、情熱的にできないなんて、こんな不幸はないと思う。

 

遊ぶように仕事し、仕事するように遊ぶ ってくらいがちょうど良いと思う。

 

何でもいいんだ、情熱的にチャレンジできてれば。キャリアとか、給料とか、そんなもんは突き抜ければあとから付いてくるから。

夢とか目標

 

持っていたほうがよいが、無理やり持つものではない。

ましてや、他人に評価されるための作られたもの(むりやり用意したもの)などはもってのほかだ。

 

自分がどうすごしたいか。それを追求することが良いと思う。

 

就職活動中の若手の面接を受ける機会があるのだけど、この夢、目標がきれーすぎる感じがするのよね。

 

社会貢献が夢です!

 

であれば、就職ではなくNPOに言ったほうがよいと思ってしまう。

 

いいたいことは社会貢献を夢にすることはNGではなく、本当にやりたいこと、手に入れたいことに向き合ってほしいということ。

そうでなければ、ここぞというときに自分を奮い立たせることはできない。

 

なんとなくほしいものをなんとなく努力して、なんとなく手に入れるのって

満足感もなんとなく何だと思う。

 

だから、本当にやりたいこと、好きなことを見つけてほしいんだよね。

そこに理由はいらない。後付でもなんでも良い。 なりたいという思いが本物ならなんだっていいんだよ。

 

 

立場をつかいコミュニケーションをとるやつ

 

これは本当にたちが悪いから無視して良いと思う。

 

俺は営業職だから、顧客、営業の立場上、ある程度はあるし、それは飲み込むけどたまに、自分が神にでもなったような奴がいるけど、そういう奴とは徹底的にたたかうね。

 

結果、取引がなくなったとしても別で補填すればよいやくらいの気概。

 

飲食店などで、店員に横柄な態度をとるやつとか、これもだめね。

 

覚えておいたほうがよい。金を払う方がえらいということはまずない。

人は平等であり、金を払う人、金を受け取りその分の対価(価値)を提供する人。これも当然平等である。

サービスに対し納得がいかなければそれに対する指摘は別に良い。

その指摘が人格などに踏み込むことは基本ありえない。

 

ありえる場合は、その指摘を受けた人が本当にだめな人格で人をだまそうとかした場合くらい。

 

金とか地位とか、そういうフィルターでものを見て判断すると本質をずらす。

これは、人との付き合い、仕事選び、いろいろなことに通ずると思う。

 

これは結構だいじだぜ。