夢とか目標
持っていたほうがよいが、無理やり持つものではない。
ましてや、他人に評価されるための作られたもの(むりやり用意したもの)などはもってのほかだ。
自分がどうすごしたいか。それを追求することが良いと思う。
就職活動中の若手の面接を受ける機会があるのだけど、この夢、目標がきれーすぎる感じがするのよね。
社会貢献が夢です!
であれば、就職ではなくNPOに言ったほうがよいと思ってしまう。
いいたいことは社会貢献を夢にすることはNGではなく、本当にやりたいこと、手に入れたいことに向き合ってほしいということ。
そうでなければ、ここぞというときに自分を奮い立たせることはできない。
なんとなくほしいものをなんとなく努力して、なんとなく手に入れるのって
満足感もなんとなく何だと思う。
だから、本当にやりたいこと、好きなことを見つけてほしいんだよね。
そこに理由はいらない。後付でもなんでも良い。 なりたいという思いが本物ならなんだっていいんだよ。
立場をつかいコミュニケーションをとるやつ
これは本当にたちが悪いから無視して良いと思う。
俺は営業職だから、顧客、営業の立場上、ある程度はあるし、それは飲み込むけどたまに、自分が神にでもなったような奴がいるけど、そういう奴とは徹底的にたたかうね。
結果、取引がなくなったとしても別で補填すればよいやくらいの気概。
飲食店などで、店員に横柄な態度をとるやつとか、これもだめね。
覚えておいたほうがよい。金を払う方がえらいということはまずない。
人は平等であり、金を払う人、金を受け取りその分の対価(価値)を提供する人。これも当然平等である。
サービスに対し納得がいかなければそれに対する指摘は別に良い。
その指摘が人格などに踏み込むことは基本ありえない。
ありえる場合は、その指摘を受けた人が本当にだめな人格で人をだまそうとかした場合くらい。
金とか地位とか、そういうフィルターでものを見て判断すると本質をずらす。
これは、人との付き合い、仕事選び、いろいろなことに通ずると思う。
これは結構だいじだぜ。
人と比べるということは意味があまりない
子供達3人にどうやって生きてもらいたいかと問われたらかなり上位にくること。
「人と自分を比べない」
スポーツもビジネスも基本は競争の原則はあるので、これはなかなか難しいのだけれども人と自分を比べた時には自分の経験則上、しょうもない感情がわいてくるケースがおおいよ。
●すごい人と比べた場合
自分がとてつもなく小さく、しょうもない人物に思える。客観的に人のよいところから学ぶことは重要だけど、必要以上に自分を過小評価し、自信がなくなってくるからやめたほうがよい。
自信がない自分は他人の反応をみて行動することを覚え、本当の自分の感情に素直に行動できなくなるという負の連鎖を生み出す。
●人を自分より下だと思うこと
自分のほうができていると思っている人と自分を比べた場合、優越感を覚える。
これは自分の価値観のなかでの序列であり、かなり偏見的なものの見方の場合が多い。
原理原則として人は平等であると思う。
というか、人の価値観について優劣はつけがたいと思う。正義対正義の構図になる宗教戦争みたいなもんで、どちらも双方の価値観から見ると正義なのである。
世の中はいろいろな人によって成り立っており、それぞれの正義、価値観がある。
自分の価値観で人の優劣を決めることは自分の価値観の中での話しなので何の意味がない。
●比べるのはあくまで自分の理想の自分像と今の自分でしかない。
自分をより好きになるため、理想の自分に対し努力することこそ健全で幸福な人生だと思う。
わき目も振らずそれを追い続けることができたら、すばらしい。
それがどんな自分像に向かってるかは、他人の意見などどうでもよくて、自分がなりたければよいと思うよ。
なぜそれを目指しているの?と問われて、人に旨く説明できなくても、好きなものは好きだし、自分がそうなりたいと思ったら思いっきりやったほうがよいよ。
一番強い奴って結局そういうやつ。他人にどういわれようが、自分のやりたいことに徹するやつ。それは別に楽をするほうを選べってわけじゃないんだけど、使命感みたいな感じで何かに対して集中してる人は強いよ。
登山家とか。 ただ上りたい、以上、見たいな人とかすごいなーって思うよ。
そういうのが見つかるといいよな!
どう感じるか。
目の前の事象、人、自分の置かれた環境、それらをどう感じるかは自分で選択できるということ。 7つの習慣をよんで一番自分にささっているし、その後の人生においても大変役立っている。
これは人生を楽しむための重要スキルだと思う。
楽しい、うれしい、感動した、などのポジティブな印象は別にそのままでもよいと思うけど、イライラする、しょぼんとする、などのネガティブな感情をいただいたとき、
なぜ、俺はイライラしているのか、なぜくよくよしているのか、この原因を自分で探し始める。その原因に行き着いたとき、それは本当にイライラするべきことなのか、これをポジティブに感じるとしたらどういう要素があるだろうか、とあれこれいろんな確度で考えてみる。
そのままイライラが続くこともあるけど、大半は、ポジティブ(度合いもあるけどね)に持ってこれる。イライラしちゃったらそりゃもうしょうがない。
人生を円グラフで表現します。 そこに怒り、楽しい、感動、悲しい、興奮、無感情という項目ごと円グラフに表現されるとした場合
自分は、楽しい、感動、興奮 の度合いをどれだけ伸ばせるかということをよく考えている。
これはたぶん大学時代くらいから考えていて、ときどきこれを考えたりする。
これまでの人生はどんなかな?とか。
死んだとき、よく漫画である、閻魔様的なひとがいて、
「あーあなたは人生においてネガティブな感情の割合がおおかったねー」
とか言われたら、悔しいなと思うだろう。自分なら。
そもそも。ネガティブな感情って、他人に何かを求め、自分の思い通りにその相手から反応、行動がかえってこないときに起こる。他人の感情、考えなどコントロールすることなどできないのにそこに期待をすることが間違っているのね。
いや、期待することはよいか。見返りを求めないというとだな。やりたいから相手にしてあげる。そういう感じがよい。
重要なのは自分がどうしたいか。自分はどうすべきか。コントロールできるのは自分の思考と行動。
35才すぎてようやく少しずつそれができるようになってきたしわかってきたわー。
おせーな。
とかってゆーのがすんごくまとまってるから、7つの習慣呼んだほうがよいぞー
初めてかく
初めてブログを書くことにした。前々からかいてみようとは思っていた。なぜかきたかったか、
1、文章を作る練習
2、子供達に自分が何を考えてたか伝えたい
3、やったことないから
が主な理由。
特に、2が大きい。 36歳となり、人生をそこそこ旨く楽しめる方法などがわかってきた。でも個々にくるまでもいろいろな苦しみ、落ち込みもあったぜ。
しかし、いま結構安定して楽しい。
いろいろぶつかり自分なりに物事のとらまえかたを整理して今の自分の考えや価値観にいたるわけだ。
そういうことを子供達に少しでも伝えたいのだが、コミュニケーションで伝わることはたかがしれてるし、押し付けてしまっても、伝わらん。
なぜ伝えたいかってのは、それをしっていればどこかでそれが子供達が各々の人生をポジティブにチャレンジングに楽しく生きるためのきっかけやきづきになるかもなと思うわけだ。
いつか、「これ、俺なりの考えてきたこと。お前らの人生でやくだちそうだったら呼んでみ」っていってみたいと思った。
というのも俺は23歳で親父が死んだ。
結婚する前。 てか、嫁とお付き合いしてたけど、破綻した時期だ。
その後二人は再び付き合って結婚し、3人の子に恵まれたんだけども、親父になって、自分の親父、つまりひろきさんのとすんごく話したいと思うことが多々ある。
しんじゃったからはなせないんだけど。どんなこと考えて親父やってたのかな?とかしりたいなーって。初めて親父になったとき。37歳で春日部に引っ越してきたとき。仕事もガラッとかわったときの心境とか。がんで倒れたときとか。
どんなこと考えてたんだろうって。
自分がそんなこと考えてて、自分の子供もたぶんきになんじゃねえかなと思ったから、
まとまりねえけど、つらつら書いてみようと思った。
そこでルールを決めた。
1.本音で書く
2.書きたいときに書く
とりあえず。これ。
ブログツールにもなれながら自分のペースでつらつらいく。